“好き”ってなあに⑥~同情と共感の違い~ 森林原人の「続・セックス幸福論」

“憐れみ”とは、苦しんだり悲しんでいる誰かに同情し、助けてあげたいと行動することです。同情し、行動する、この2点が重要なポイントです。欠点は、助けたいと思った時点で、助ける側、助けられる側という立場の違いが生まれ、優越感や劣等感が生まれてしまうところです。

キリスト教では“憐れみ”は大切な教えの一つです。それは、神であるキリストによる罪深い人々への賜物です。つまり、人々からすると、神なる存在からいただくものです。神と人は立場が違います。神を崇める人からすれば、当然、神は上で自分たちは下です。(神が自分を上、人々を下に見ているかどうかはここでは考えません)

でも、人と人においてはどうでしょうか?AさんがBさんを「かわいそう、助けてあげたい」と思った時、Bさんは、Aさんの“憐れみ”によってかわいそうな人にさせられます。それは、時としてBさんの尊厳を傷つけることになります

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“好き”ってなあに⑤~好きと憐れみ~ 森林原人の「続・セックス幸福論」

今回は、人と人を繋げていく動機に、“好き”以外に“憐れみ”というものがありますという話です。

まずは意味を確認しておきましょう。

“憐れみ”とは、相手の苦しみや悲しみに深く同情し、助けたいと思い行動することです。

全く同じ読みで“哀れみ”という言葉もあり、意味も似ていますが、こちらはただ同情するだけで行動は伴いません。思いやりや情けも“憐れみ”と近いものですが、それ自体に行動が含まれているかどうかを考えると、“哀れみ”の方です。

“好き”という気持ちは、その対象に対して何かしらの“快”を一方的に感じていると説明しましたが、“憐れみ”の場合は苦しみや悲しみを感じているので心を痛めています。痛めているから、その痛みを和らげたいと思い行動に移します。

“憐れみ”に関して、順を追って考えてみます。

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”好き“ってなあに④〜好きは怖い〜  森林原人の「続・セックス幸福論」

”好き”って気持ちは、その対象に向かっていく方向性を持ったものです。寂しいは、周囲から断絶されその場でとどまっている気持ちです。楽しいや悲しいは、その場でとどまりつつも外側からの働きかけがあります。

”好き”という方向性を持つ気持ちによって、相手と繋がったような、世界に自分の居場所を見つけたような感覚を味わいます。でもこれは一方的繋がりであり、自分勝手なものです。

それはもう、エゴの塊とか、暴力的とも言えるものです。

今回は、”好き”って気持ちが持つ危なっかしさを考えていきたいと思います。

さて皆さん、シンデレラという童話は知っていますよね。不遇の状況にある素直で美しい娘が、魔法使いの力を借りて舞踏会に参加し、そこで王子様に見初められて結婚することで窮地から救い出されるというお話です。原作では魔法使いが出てこないバージョンもあったりしますか、多くの人が認知しているのは「ビビデバビデブ〜!」の呪文が出てくるディズニー版でしょう。

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“好き”ってなあに③~好きになると生きている実感が強くなる~ 森林原人の「続・セックス幸福論」

“好き”になると、それを手に入れたいと思ってしまうので、思うように手に入らない苦しみが付いてまわる。

でも、“好き”な物や人には心地よさを感じていて、そんな“快”を持った対象が自分の中に存在することになるので、“好き”って気持ちを持つこと自体が嬉しいこと。

ここまでがおさらいで、いよいよ“好き”の核心に迫っていきます。

“好き”になった時をイメージにすると、自分から対象にハートの矢印が飛んでいっている感じです。まずは、一方通行の矢印をイメージしてください。

一方通行ですが、“好き”になると、対象と繋がれます一方通行の方向性を持った糸で繋がっている関係ができます。

これが、自分が世界と繋がっているとか、自分が世界に存在している実感になります。

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